1.02.2019

自己愛性人格障害と自己嫌悪

あけましておめでとうございます。2019年ですね。
さて、わたくしは2018年12月から元旦にかけて海外で休暇をとっておりました。娯楽といえば海があるだけの太平洋の真ん中にポツンとある島に行っておりまして、特に何もせず毎日をだらだらと過ごしておりました。渡航前に、知人がこの休暇中に読むと良いよということで岸田秀のものぐさ精神分析 (中公文庫)をプレゼントしてくれたので、それをちょびちょびと読みながら過ごしていました。あんまり南の島で読むような本ではないと思いますが(苦笑)いくつもの大変面白い発見があったので、紹介したいと思います。最も深く納得した箇所が「自己嫌悪」と章立てられたところで、今回はこれについて書きたいと思います。



黒歴史を思い出して、いてもたってもいられなくなる

過去の恥ずかしい言動や行動をふと思い出して「うわぁあ」と穴があったら入りたい気分になること、誰にでもあると思います。思い返せばキリがないですが、わたしなんかは時折仕事上でしょうもない見栄を張ってしまい、あとから自分で自分が恥ずかしくなって、自分を平手打ちしたくなるような気分になることがあったりします。これが自己嫌悪というやつです。しかし、そんなしょうもない行動を見た他人が私のことを「しょうもない見栄を張っているな」と嫌悪するならまだしも、自分で自分のことを嫌悪しているのです。これって考えてみればとても変なことで、岸田秀はこのポイントを指摘しています。

自己嫌悪と自己反省は違う

自己嫌悪の感情はいやなものですが「自己嫌悪してしまった」と言っている人をどこか「あの人はちゃんと自分をみているな」とか「反省しているようだな」という、どこかポジティブな印象はありませんか?私は実は少しありました。自己嫌悪しているなどというと、自分をきちんと省みているひとだとう印象になっていたのです。これは、厳密にいうと自己嫌悪ではなく、自己反省でじつは根本的にまったく違う2つのものではないかと、この本を読んで発見したことです。

架空の自分が、現実の自分を嫌悪している状態

岸田秀は、自己嫌悪には「嫌悪する自分」と「嫌悪される自分」の2つが存在していると指摘しています。

存在するものは全て合理的であるとまでは言わないが、正当な理由にせよ、不当な理由にせよ、それなりの何らかの理由があるから存在していることは間違いない。では、「嫌悪される自分」が存在する理由はなんであろうか。嫌悪されるのは、つねに、現実に自分が行ったある行為である。それらの行為を考察してみると、常に自分の何らかの欲求を満足させたか、または満足させる可能性のあった行為であることがわかる。虫のいいことを頼んだのは、ひょっとしてもし承諾してもらえたら、うまい汁にありつけるからである。卑怯未練な事を仕出かしたのは、ある利益または快楽を、それを得る正々堂々した手段がないにも関わらず、あきらめきれなかったからである。あとから「はしたない」とか愚にもつかぬ」と判断するとしても、それを口走ったり自慢したりしていた時点では、いい気分だったのである。すなわち、それらの欲求は、現実の行為を引き起こす力のある現実的欲求である。いいかえれば、「嫌悪される自分」とは、まがうことなき現実の自分である。
この箇所を読んではっとしたのは、わたしは「自己嫌悪」というものを完全に勘違いしていたのだなということです。例えば、わたしが大して知りもしないことを自分はそれについて知っている優秀な人間だと言わんばかりにしょうもない見栄を張ってしまったときなどは、あとからその行動が恥ずかしくなり自己嫌悪をしたときには、自己を嫌悪している方の自分が本当の自分であり、しょうもない見栄を貼る自分は本当の自分ではないのだ、と思っていたのですが、しょうもない見栄を貼るような人間が、実は現実の自分であるということなのです。

架空の自分とは、社会的にそう承認してもらいたい自分

他人に実際にはない能力や知識があたかもあるように振る舞っているのが現実なのに、実際にその行動をしているその瞬間は、自分の自己を満足させようとしている行為です。しかし、この行動がのちに自己嫌悪として跳ね返ってきます。本当のわたしは、自己を大きく見せたいがためにつまらない見栄を張るような人間ではなく、地に足がついている高潔な人間なのに、あのような軽薄な行動をとってしまった。「ついうっかり」「本当の自分は違うのに」と思いながら自己を嫌悪する。しかし、これらはあくまでも「そうゆうふうに周りからみられたい自分像」であって、これは完全に脳内で作り上げた理想像でしかありません。

自己愛性人格障害の裏には強い自己嫌悪がある

自己愛性人格障害の特徴に「自分を重要人物と思い込む」「自分だけに特権があると思う」「特別な才能や権力があると思っている」などというものがあります。これは、実際にその人に特別に特権や才能があったりす場合は非常に稀です。ほとんどはそう思い込んでいるだけで、現実は特別な特権などはないのです。このように思い込むにはなんの根拠もないし、それに対して努力もしません。自己愛性人格障害の裏には、大きな自己嫌悪があるのです。現実と理想像があまりにもかけ離れているのです。わたしが自己嫌悪と自己反省をごちゃまぜにして勘違いしていたのはこの点で、これが自己反省なら、理想の自分に近づけるように何らかの努力をするでしょうし、それが向上心となるのだとおもいます。自己嫌悪は、ただ嫌悪しているだけで、理想の自分と現実の自分にギャップがありすぎるのです。

自分を客観的に見ることができない偽善者

自己嫌悪の強い者は自分の悪いところを客観的にみつめる良心的な人間であると自分では思いがちだが、実際には自分を客観的に見られない偽善者である
ものぐさ精神分析の中に、上記のような一文があります。自己愛性人格障害者には、大きなコンプレックスが隠されているのは明確です。(コンプレックスのない人間はいませんが、非常にギャップがありすぎるのが自己愛性人格障害者です)それを隠すために、自分には力があるという妄想を膨らませるのです。自己愛性人格障害(最近現場では自己愛性パーソナル障害という言い方が主流のようです)は、治療するば改善することはありますが、治療中に医師やカウンセラーと信頼関係を結ぶことが困難なことが多いと言われています。





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