2.25.2025

栗城史多さんについて思うこと

 

こんにちは。

久しぶりの投稿です。

登山家と言われた栗城史多さんについて、大変今更ではありますが、あくまで個人的な感想を書きたいと思います。


彼のことを知ったのはかれこれ20年近く前のことで、当時勤めていた会社の先輩が「面白いドキュメンタリー番組をみた」という些細な雑談で知ることになった。

先輩の話では、世界の高い山では遭難したり滑落したりして亡くなってしまう登山家がいるが、あまりにも高度が高い場合はご遺体を収容することも難しく、そのまま放置されていることがある。そして、他の登山家たちはそのご遺体を目印にして登ることもある。ドキュメンタリー番組で特集されていた栗城という登山家は、登山の様子をライブ中継しているが、そのご遺体があったりしてすごい映像だった、というものだった。

それを聞いた自分は「へえ、そんな世界があるのか。すごいね」程度の感想であり、当時のインターネットは無法地帯でそのドキュメンタリー番組がネット上に違法投稿されていて、その番組や栗城さん自身が投稿した動画などを後日検索してみて「すごいなあ、自分は登山などはできないからこうやって配信してくれるのは面白い」と思っていた。

ご本人が「踏み出す勇気」や「不可能はない」的なことを言っているのにも「頑張っている人がいるな、すごいな、応援したいな」と純粋に思っていた。

それから、当時おそらく栗城さんの公式ホームページなのか運用していたfacebookなのかで次はどんな山に挑戦するのか少しサイトに訪れたこともあったが、登山が趣味ではない自分にとって次第に興味も薄らいでいき、エベレストに挑戦しだしたあたりから「エベレスト⚪︎⚪︎メーターで断念」などのネットニュースをたまに見かける程度のことでしかなかった。そんなニュースのヘッドラインをみても登山の知識を持ち合わせてない自分は「そりゃ世界の最高峰だもん、簡単には登れないよなあ」程度の感想しかなかった。

その後、エベレストで登頂を断念し下山途中で滑落遭難死したというニュースを見た時も「ああ、亡くなってしまったのか」ぐらいの感想だった。しかし、一番最初に彼を知った時には「すごいな、頑張ってほしいな」とピュアに思ったのは事実で、その後批判的な意見があるということもチラッと見聞きしたこともあったが、実際に議論や批判内容がどういったものなのかはよく知らなかった。

亡くなってから何年も経っていると思うが、Youtube動画のおすすめになぜか栗城さんの動画が出てきて「ああ、こうゆう登山家がいたな」と思い、批判もあったようだけど一体どうゆう批判だったのだろう、というちょっとした興味で色々と調べてみたところ、とても考えさせられる内容だったのでこうやって自分なりに書いてみたいと思った。

というか、このモヤモヤした気持ちをどう扱っていいかわからず、書くということで整理してスッキリしたいわけではないがモヤモヤを何かに吐き出したいだけなのかもしれない。

先に述べておきたいのだが、自分は登山の経験はありません。よって、登山における専門的知識はなく全て登山家の方々や、まとめられているWikiや記事などを読んだ上で書いたものでありますので、実際の登山のやり方や疑惑の内容についてはそういったマテリアルからの情報になります。

栗城史多まとめwiki 


批判の内容は主に、無酸素ということと単独ということなのだろう。

色々な記事を読んで、プロの登山家が「ほんとうに登頂しようとしているのか?」という疑念を投げかけている。自分はこの言葉がどうゆうことなのかよくわからなかったが、妙に心に残る言葉だった。登頂する気もない人が登山家と自称しエベレストという山に挑むということがあり得るのか?様々な記事を読んでいると、素人の自分にでも、確かにこれは登頂を真剣に狙った行動とは言えないと言われてもおかしくはないなと思うようになった。

無酸素で登頂を目指す、ということを聞くと登山知識のない自分にとってはなんだかよくわからないけどすごいなあ、と思ってしまうのである。高い山の山頂付近は空気が薄いという知識はあるし、ロープウェイではあるけれどもスイスのマッターホルンを眺めるための観光地で3,800m地点まで行ったことがあって大変空気が薄かったので、それよりも遥かに高い山であればより空気も少なく極限のところなのだろう、と。そしてわざわざ「無酸素」と謳うのだからきっとすごいことなのだろう、と素人は思うのである。これは自分だけではないと思う。

登山家の方々の記事を読んでみると、酸素ボンベが必要な山というのは8,000m級の山々であり、栗城氏がエベレスト以前に登頂していた山はそもそも酸素ボンベを必要としない山であるらしい。当人が謳っている「世界7大陸最高峰に無酸素単独で挑む」という中には無酸素で挑むことに価値があるエベレストも含まれているわけだから完全に間違っている表記というわけでもない。自分は広告業界での経験があるのでこういった表記に関して、企業は広告を打つときに過大広告になっていないか、誤解を招かないかなど何度も厳しくチェックをするし、景表法という法律まであるぐらいだ。なので、この表現は個人的な意見でしかないが「微妙」という感じ。完全にクロとも言えない。これがなんらかの企業の広告であれば、小さく注釈を入れて守りを固めるな、という見解である。「世界7大陸最高峰で無酸素とは、通常酸素ボンベを使用して登頂にチャレンジするエベレストでの無酸素という意味」みたいな感じ。なので、ここはそこまで激しく批判されることはないのではとも思う。(議論はある)

一方、激しく批判や議論の対象となっていたのは「単独」という部分である。

単独で登頂という価値には概念があるという。

BCからたった一人で出発し、すべての荷物を自分で運び、他のパーティが残していったロープやハシゴなどのギアも使わず登頂し、そしてBCまでひとりで下山するということだそうだ。ヒマラヤの山々は5,000から6,000mあたりでベースキャンプを張り、高所順応(平地から高地へ移動して一定期間滞在することで、酸素の薄い環境に体が適応する現象)をしながら、登頂を目指す。当然一気に登れないので、ところどころでテントを張りながら、最後は一気に登頂し下山をするのである。8,000m以降のデスゾーンは名前の通り人間という肉体が滞在できるには極めて危険な環境であることからできるだけ迅速に登頂し戻ってこなければならない。また、通常の高所登山では数名のパーティを組んで万一の滑落に備えそれぞれをロープで繋ぎ登頂する。このことは素人の自分でもなんとなく知っていた。その知識は登山映画だったり、他の登山家の偉業をニュースや記事などで読んだ程度のものではあるが、それでもたった一人で挑むというのは高難易度であるのだろうという想像はできた。

登山は競技ではないので、単独登頂ということに明確なルールが定められているわけではない。オリンピック競技のように審判がその場に立って「はい、あなた単独ではないですよ、失格」と第三者が山頂でジャッジをすることは当然ない。よって、自己申告になるのであろう。自己申告なので誤魔化すことも可能そうに聞こえるが、実際に8,000m級の山々でほんとうに「単独」を欺瞞することも逆に難しいのではないかとも思うのである。

まず、BCには他のパーティもいるだろう。登山中に別の隊とすれ違う、お互いの存在を認識することもあるだろう。このような高嶺はそもそも登山ができる季節が限られている。さらに登頂を目指すとなると良好な天候の日にちも限られている。となると、単独で登っているかどうかは別チームであるとしても他の隊が見てわかるのではないだろうか。

栗城氏の場合は「単独」というところに大きな疑惑があった。

テレビのドキュメンタリー番組で、ひとりで登る同氏の後ろにシェルパと思われる2名が後からついていっている空撮映像がある。仮に先をいく栗城氏に何かあった場合はそのシェルパがすぐに駆けつけることができるようになっていたのではないか。

登山ルートで雪崩が起きる危険性があるかどうかなどBCキャンプのスタッフに無線で確認し判断を相談している時もある。歴史ある山岳業界での「単独」の概念は、そういった山での判断も自分で行い無事に登頂し下山をするということも含めて「単独で成功した」ということになるそうなので、BCのスタッフに判断を仰ぐのは「単独」とは言えないのではないか。プロの登山家の方々が口を揃えていう「単独ではない」というにはそれなりの理由がある。

自分はこれらの意見が本人の耳に届いていなかったわけれはないのではないかと思うのである。ライブ配信にこだわった栗城氏である。インターネットの自由な声というのには世代的にも当然わかっているし、自分に対する意見がコメント投稿されたりすることもわかっているわけで。現に彼を応援する顔の見えないネット上の温かい声援には殊更敏感な彼だったわけである。そう言った登山家からの意見を「全く知らなかった」わけはないと思うのである。

「批判をする人たちは僕をわかっていない」と何かのインタビューかなんかでみた。

中にはほんとうに悪質なアンチコメントもあっただろう。それらは「挑戦する人を馬鹿にする」意見として無視をしていいし、そうゆうのに左右されず「夢を追い続ける人」という姿がたくさんの人の胸を打ち勇気を与えるということは栗城氏の活動の中心にあった。

経験あるプロの登山家たちは「挑戦すること自体は素敵なことである」と口を揃えていっている。その上で準備やトレーニング不足の指摘、難関ルートをあえて選択することへの疑問を伝えているのだが、その厳しいけれど的確なアドバイスすら栗城氏には「批判アンチコメント」と捉えていたのであろうか。どうにもよくわからない。

高所順応トレーニングの一環として、エベレスト挑戦前に富士山へ登っている。結果、8号目で登頂を断念し下山しているようであるが、この日は確かに雨が降ったそうであるが登山経験のない一般観光登山者も登頂しているような日である。これには登山経験のない自分も少し笑って呆れてしまうほどであった。もちろん親しみのある富士山であるが事故も多い。天候によっては当然危険である。雷雨があれば下山は正しい判断である。しかし8号目で断念し下山した、あるいはそもそも登頂を目的としておらず8号目付近でなんらかのトレーニングをしていたとか、そう言った説明もないままただただ8号目まで行ったが下りた、ということらしい。

エベレストの登頂はもちろん、多くの人がどれだけそこを目指しても成功しないこともあるチャレンジであるが、富士山も登頂しないとなると、この人にとって登山とはなんなのだろうか。

登山=登頂を前提で登るもの という素人の短絡的な発想自体が間違っているのだろうか。必ずしも登頂しなくても山の稜線を歩いてみたり、途中まで登って帰ってきても本人がそれを目的にして楽しんでいればそれも「登山」と言えるのではないか。

エベレストはトレッキング目的でも行くことがある山なのだろうか。調べてみると確かにエベレストのトレッキングはあった。ハイキングとして誰もが楽しめるアクティビティだそうだ。確かにこれなら自分もちょっと行ってみたいと思った。

栗城氏はエベレストにトレッキングに行ったのだろうか。登頂を目的とせず、山を散策し楽しみ帰ってくる。山岳業界にある「単独」という概念ではなく、チームを組まないが自身の安全のためにシェルパは雇い、BCのスタッフにも判断の協力をしてもらう。つまりシェルパやBCのスタッフはチームとしてカウントしない。命綱のロープでチームメイトと括らない自分ひとりで登る。

あくまでも推測である。

ひょっとしたらこうゆう状態をほんとうに「単独」であると本気で思っていたのかもしれない。もしそうなら少々恥ずかしいことではあるが、この時点での無知に罪はない。その後、各方面からの指摘があるにもかかわらず「単独」とこだわり続けた。「単独」ではないのに。ここがどうもわからない。単独という看板を外したらスポンサーが消えるのだろうか?単独じゃなくても酸素ボンベがあってもエベレストに登頂すること自体、多くの人にとってはそれだけでも十分尊敬に値することなのだが・・・。

エベレストに初挑戦する際の映像を見た。


「単独無酸素登頂、生配信中継、必ずやり遂げたいと思います」とカメラに向かって爽やかに話している。プロの登山家であればこの時でも単独の概念やそれまでの経験や実績などの観点からなんらかの意見をしたのかもしれないし、実際した人もいるかもしれない。しかし、自分がここで注目したいのは本人が「必ずやり遂げます」と真っ直ぐ話しているということである。たとえそれがプロの目線から見てどれだけ無謀なことであっても、ピュアに「やり遂げるんだ」と話しているのはある意味健全なことだとも思える。そしてその時、実力不足や準備不足、天候や登山計画などなんらかの問題で最終的に登頂が果たせなかったとしても「やり遂げるんだ」という思いが続く限り、自分なりに努力してやり遂げるためにどうすればいいかを考えるのではないか。当然、目指しているのは極めて難易度の高い挑戦である。「やり遂げたい」という意思だけでは難しい部分もあるだろう。もう無理なのではないか、諦めてしまった方がいいのではないか、と後ろ向きな感情が出てくることもあるだろうし、そういった葛藤は避けては通れないかもしれない。

単独で無酸素で挑戦、という極めて難易度の高い挑戦を掲げること自体はいいのだが、仮に酸素ボンベあり、単独ではなかったとしてもまずは8,000mを超えるという経験をするという点で一度登ってみるということだってできたかもしれない。しかしそれをやらなかった。

一度創ってしまった自身のキャッチコピー「単独無酸素で」という点に縛られてしまったのだろうか。もしそれを一旦はおろして「エベレスト登頂」をした場合、中には「単独でも無酸素でもないじゃないか」と批判をする人はいるだろう、しかし「単独無酸素」での登頂に向けたひとつの通過点にはなったのではないか。

彼は結局は8,000mを超えることはできなかった。8,000m以上はデスゾーンと呼ばれる人間にとっては極限の環境だ。エベレストの頂はさらにそこから800m以上も上にある。ほんとうに想像を絶する世界なのだろう。8,000mを超えれた経験はなかったとしてもその直前の7,000m後半までは自力で行ったのである。であれば、その先がどのぐらい過酷なところなのか、7,000mの段階でもそこがどれほど厳しい環境なのかは過去7回のエベレスト経験でわかっているにもかかわらず、さらにそこから1,000m近い標高を「無酸素」で、しかも「単独」で行くことの恐ろしさ、あるいは可能性の低さを栗城氏本人がわかっていないわけはないと思う。それこそ7,500m以上の標高に立ったものなら全身でわかるのではないかと思ってならないのである。

そして、最後のチャレンジの直前に撮られたインタビュー映像をみた。

インタビューを見た時に「挑戦している」ということはしきりに口にするが「登頂したい」という言葉がないことに違和感を感じた。「エベレスト2018行くよ」とおどけているが「登頂するよ」とは言わないのか。初めて挑戦する前に「無酸素単独登頂やり遂げたいと思います」と語っていたのはどこへ行った? 

エベレストに挑戦、聞けばほとんどの人が「登頂を目指しているのだろう」と思うはずだ。そして挑戦する登山家は当然その頂を目指して、絶対に登頂して世界一高いその頂に立ってみたいという純粋な強い気持ちがあるのではなかろうか。

彼は「行く」とは言ったけれども「絶対に登頂して見せる」という強い決意のようなものは最後まで感じなかった。では、登頂を目指さずにエベレストに挑戦するとは、一体何をしに行くのか?

やりたいのは挑戦であり、達成ではない

自分はなんとなくこう思う。

彼は「挑戦している」という状態が心地いいのであって、「挑戦に成功した」その先にある未知の世界に、たとえそれがどんなに素晴らしい景色であるとしても、その領域に踏み出すことが怖かったのではないかと思う。

「挑戦している」という状態をキープすることでメリットもあっただろう。スポンサーからの資金集めも「挑戦を応援したい」ということであるから「挑戦し続けている」という状態はキープしておかなければならない。達成するかどうかは重要ではなく挑戦しているかどうかが大事なのであったのだろう。

スポンサーや講演会の仕事が忙しく、必要なトレーニングを怠っていたという意見もあるようだ。それもあるかもしれない。ただ、冒険家が冒険家でいられるためには当然資金も必要であり、そのためにスポンサーを見つけたり講演会でギャラを稼ぐという方法自体になんの問題もない。現に多くの登山家がそのような活動を通じて資金を得て再度ヒマラヤに挑戦している。

なので自分は、スポンサーのためにキャッチーな謳い文句である「無酸素単独で」の看板が必要だったという意見も認めるが、それだけではない何か彼の脆弱性を感じてしまうのである。そして、その脆弱性は人間が大なり小ない持っている根源的な弱さであり当然自分にもある「弱さ」をまざまざと生々しく見せつけられているようで居心地が悪い気分になる。何かモヤモヤしてしまうというのはここである。

夢を達成してしまったら不都合

栗城さんは、エベレストのノーマルルートですらも登頂できなかったのに、ルートをどんどん難しくしていったそうだ。最終的に選んだルートはエベレストでも最難関と呼ばれるルートだった。ほぼ不可能である。

不可能であるということは栗城氏にもわかっていたのではないかと思うのである。上記のインタビュー映像を見た時に、どのような質問にも回答が的を得ていないというか何かこう自分ごとではないような妙なふわふわ感を感じてしまうのだ。

当初「単独無酸素登頂、やり遂げます」と爽やかに言っていた無知の栗城氏の方が健全に見えるのだ。最初のエベレスト挑戦で、無酸素単独は無理だと痛感したのかもしれない。どんどん難関ルートを選んでいくことで、周りの登山家たちからは「支離滅裂だ」「無茶苦茶だ」と言われようが彼にとってはそれが都合が良かった。無茶苦茶でも支離滅裂でもない、なぜなら彼は登頂する方が不都合だからである。絶対に登頂できない理由が欲しかったのではないか。

それは、自分の登山家としての実力をわかっていたのではないか。わかっているなら、地道に努力していくことで登頂の夢は一歩一歩近づいてくる。しかしそれには、まず自分がどの実力なのかを正確に知ることになる。それが怖くて怖くてたまらなかったのではないか?

実際の自分と向き合えば、単独無酸素でエベレストに登頂というチャレンジがどれだけの挑戦で、山岳会、人類の歴史としてどれだけの価値を持つか、その偉業の前で自分自身が虫ケラのように感じてしまうのが恐怖だったのではないのか?

弱さを認めるのは誰でも怖い。恐怖である。

このブログは主に、独親からのトラウマについての内容がほとんどであるが、栗城氏が独親育ちと言いたいわけでは断じてない。それに、確かにプロの登山家たちが指摘するように「単独」や「無酸素」という部分には議論の対象になるような行動があるのだろうと思うが、自分はそこに批判したりするほどの経験も知識もないので、これで彼は詐欺師だとか嘘つきだと言う気もない。むしろ、エベレストには登頂できなかったけれども、他の6大陸の山には(単独という概念の議論はあると思うが)登ってきたわけだし、山の厳しさは素人の自分より遥かに本人がわかっているはずなのに、なぜプロの登山家たちの意見を「アドバイス」と受け取らず「アンチ」と捉えてしまうのか、そこがわからないのである。

トラウマがあろうがなかろうが、人間とは弱さを持っている生き物なのだろうと思う。その弱さを認めることは恐怖であり、無力感であり、絶望かもしれない。しかし弱さを認めた先には底しれぬ安心感がある。

それは本当の自分に出会うということであり、その絶望の中で何かの光が見える。

弱さを認めるのは勇気である、という人がいる。勇気、なのかもしれないが、自分は勇気でもないような気がするのだ。それは諦めでもあり、降伏でもある。降伏した瞬間になぜだか訪れる根源的な安心感、これがどこからくるのかわからないが、そこへ至るまでには筆舌に尽くし難い葛藤や苦しみもあるかもしれない。

彼は弱さを出せるところがあったのだろか。
弱さを曝け出せる場所は多くない。もし弱さを曝け出す人がいなくても自分自身で抱きしめてやればいい。彼の場合はそれがヒマラヤの山々だったのだろうか。

最後のインタビューを見ていると、この人はもうエベレストに挑戦したくないと本音では言っているような気がしてならないのだ。




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