11.07.2018

「楽しむことが怖い人たちへ」と名付けた理由

このブログには「楽しむことが怖い人たちへ」と名付けました。
これにはちょっとしたエピソードとわたしのささやかな思いがあります。




太平洋の真ん中、南半球にはいくつもの美しい島々があり、わたしは青い海が大好きでよく訪れています。ひとつの島に住む友人がおります。その友人と初めて会った時のことです。




彼はローカルのサーファーで、現地のツアーガイドもしていました。初めから一緒にいて居心地がいいというか、特に何かを話さなくても沈黙すら心地いいような関係でした。滞在中は、同じ島に暮らす彼の両親とも挨拶することがありました。

わたしが日本に帰る日、空港まで送ってくれる車の中で彼は突然言いました。

「君の会った母親はステップマザー(継母)なんだ」
「本当の僕の母親は別の国にいる」
「その母はアルコール中毒だったんだ」

わたしは驚きませんでした。その時すでに、トラウマ治療は大きな部分は済んでおり、自分と同じような傷を持つ者同士はなぜかわからないけど惹きつけ合うということを知っていたからです。

わたしは自分の話も少ししました。母との関係が幼少期から難しかったこと。それでつい数年前に本格的なカウンセリングと治療を受けたこと。彼もまったく驚く様子もなく聞いていました。

「わたしは、今もう、やりたいことをやろうと思っててね。だからサーフィンも始めたの」

と言うと、

「そうだね。君の母は、きっと子供の頃から君を楽しませなかっただろうから」

子供をコントロールし、楽しみを奪う親

She did not let you have fun. と、その言葉がわたしの過去の多くの悲しいエピソードの紐を解きました。そうか、母はわたしを楽しませてくれなかったんだ。小学校で友達の家で遊ぶことに、その友達や友達の親を全否定してまでやめさせたり、わたしだけ自転車に乗らせてくれなかったり、友達の両親がローラースケートに連れて行ってくれるのに嫌な顔をしたり。高校時代も、塾の帰りに友達と話していて少しでも遅くなると鬼のような形相になったり、わたしやわたしの周りの人を侮辱する言葉の数々・・・。いくつもいくつも、たくさんの小さなエピソードから、大きなエピソードまで心の奥から湧いてきました。

そして、大人になったわたしは、やりたいことをやることが悪いような、罪悪感があるような気がしていました。楽しむことはとても危険なことなんだと、自動的に何かがわたしを止めているような気がしていました。

トラウマ治療中に、カウンセラーが「自分の好きなことしてください」と言いました。「好きなことってなんですか?やりたいことって?」と聞いたら「なんでも、思いつくものでいいですよ。なかったら無理にしなくていいですよ」

わたしは、やりたいこと、楽しいことというのがよくわからず数日を過ごしていたのですが、ふと「ひとりでカラオケに行ってみたい」という気持ちになりました。どうしても行きたい、でも、行くのは恥ずかしい、どうしよう。そして、休日の夜に勇気を振り絞って1時間だけカラオケに行きました。カラオケボックスに足を踏み入れたのは大学生の時ぶりで、曲選びは分厚い本で探すんじゃないんだということに驚きました。

カラオケで歌を歌って楽しんだというよりは、やってみたかったことにチャレンジしたらできた!という嬉しさの方が大きかったのを覚えています。うすーいお酒も頼んで、なんだかとてもキラキラとした週末の夜というのを全身で感じていました。

人生を楽しむという権利

こんな簡単なことをするのが怖かった自分が、あまりにもかわいそうだという気持ちになりました。もしかしたら、毒親で悩んでいる人の中には同じように感じている人がいるのかもしれない。「アダルトチルドレン」「発達障害」「心理虐待」というのは専門的な言葉で、このようなキーワードが記事内に溢れることは予期していましたが、タイトルにつけるのには抵抗がありました。もっと、心に寄り添えるようなブログにしたいと思って「楽しむことが怖い人たちへ」というタイトルにしました。

楽しむことが怖いと思ってしまうひとすべてが癒されて、心から楽しむことができますように。





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