10.24.2021

演技性パーソナリティ障害 - 平気で嘘をつくことで人間関係を崩壊させる人たち

お久しぶりです。
最近嘘をつきましたか?

人は大なり小なり嘘はついてしまうものです。本当は寝坊したのに、電車が遅れたと言ってしまったり、食べたのに食べてないと言ったり。比較的小さな嘘もあれば、誰がを陥れるような嘘をつく人もいます。人は嘘をついた時に、自分は今、事実と違うことを言ったという自覚がありますし、多少なりとも罪悪感に駆られるものです。しかし、罪悪感に駆られるどころか、本人は真実だと思い込んでしまう、そんな厄介な人がいます。



虚言癖にみるパーソナリティ障害

一言でパーソナリティ障害といっても、いくつかに分類されるようです。このブログでも取り上げたことのある「自己愛性パーソナリティ障害」「境界性パーソナリティ障害」「演技性パーソナリティ障害」です。最近、この「演技性パーソナリティ障害」と思われる人物との接触があったので、筆者は医者ではないが、その体験を書いてみようと思います。(医者ではないので診断をしたわけではありません。あくまでも、その人物の行動や言動から、演技性パーソナリティ障害に当てはまるものが多い、という体験です)

演技性パーソナリティ障害の特徴

演技性パーソナリティ障害の特徴を大まかに列挙すると、

  1. 自分がいつも目立っている存在でいたいと思っている
  2. 他者との関係を、相手が思っている以上に近い存在、仲良しであると思い込む
  3. 自分自身をドラマチックに演出する
  4. 見栄っ張りで、見た目にこだわり人の気を惹こうとする
  5. やたらと大袈裟に物事を誇張する
  6. 相手が大物であればあるほど、自分と親密だと強調する

目立ちたいという欲求、大物と親密になりたいという願望は、多くの人にあるものなので、そのような気持ち自体が問題であるとは思えません。上記のような願望を満たすためなら、平気で嘘をつき、事実とは異なることを拡散したり、相手を混乱させたりし、他者との関係やコミュニティを壊したにも関わらず、本人には申し訳ないという気持ちがないどころか、自分は一才間違っていないと思っていると、演技性パーソナリティ障害に該当するのではないかと思います。

本人の中では嘘が真実になる

この人たちの恐ろしいところは、結局は自分自身にしか興味がないので、自分が賞賛を得ることや、目立って心地よくなるためには平気で都合のいい嘘をつきます。さらには、その嘘は本人の中では「真実」となります。しかし、本当に事実を語っているのではなく、自分自身が賞賛を浴びるような「都合のいい」解釈をするので、同じ話なのに相手が変われば微妙に内容が変わったり、時系列が変わったりするので、結局何が事実なのかわからなくなります。また、こうゆう人がコミュニティにいたり、職場にいると、周りを当惑させます。本人に事実を確認しても、本人は自分さえ不利な立場にならず、都合よく話を作るので、余計にわからなくなるどころか、周りの信頼を無くします。

本人だけが「仲良し」だと思っている

やたらと「あの人とは仲がいい」「あの人は自分のことをわかっている」と親密であるということをアピールします。それが、ある意味なんらかのポジショントークだったり、仕事上の「言葉のあや」であるならまだしも、このタイプはヘタをすると「あの人は自分に好意がある」と勝手に思い込んでいたりします。そして、自分は色々な人と親密であったり、好意を持たれているということを周りに吹聴し、自分がいかに価値があり、人気者であるかをアピールします。

自分を称賛しない人を敵と思い込む

自分のことを称賛しない人に対して敵と思い込む節があるように思います。そもそも人間関係というのは白黒ではっきり分かれないものですし、ある共通の目的をもったコミュニティや、職場の関係になると、個人的な感情というのは時に後回しにし、ドライに付き合う場面も大いにあります(むしろその方が多い)。しかに、演技性パーソナリティ障害は、その人間関係がなんらかの共通目的を持った集団としてそれぞれの役割があるということではなく、自分がいかに目立って、重要人物と思われるか、ということが最大の目的なので、その狙いにそぐわない人は敵とみなし、他の人の前で批判をし陥れようとしたり、わざと悪く評価をします。

こうゆう人が近くにいたら

関わらない、というのが最もいい方法ですが、状況によっては全く関わらないわけにはいかない場合もあると思います。その場合は、感情よりも事実ベースで話を進め、職場の関係なら議事録を取ったり、会話が形に残るようにしましょう。あとから、事実をねじ曲げられることを防ぐためです。また、あくまでも社交辞令でお世辞を言ったことが「あいつは自分に好意がある」のように都合の良い解釈をされる恐れもあります。淡々と話すことがコツです。

このタイプは、遅かれ早かれ、周りの人たちから避けられるようになります。自分から「この環境は自分の価値がわからないダメな人たちだ」と思って、自ら去っていってくれるのが良いですが、なかなかそうもいかないこともあるでしょう。接触を最小限にとどめ、相手の思う壺にならないことです。


4.28.2020

コロナ家庭内暴力 隠れたDV被害

みなさま、大変お久しぶりです。
更新にとっても時間が空いてしまいました。ラルフはこの期間、何かと忙しく過ごしておりましたが、今はコロナウイルスに感染しないようにできるだけ自宅に引きこもっております。

このような状態がすでに2ヶ月続いておりますが、周りでは家庭内不和が進んでしまっている家族をちらほら耳にします。ラルフの周りにいる家庭は、コロナウイルスがこのような状況になる前から不和があり、それが自粛の環境の中で際立ってきたという感じがします。


顕在化しにくい家庭内暴力

コロナウイルス の自粛期間でDVが酷くなったというのは日本だけではありませんが、このような状況になる前に比べて通報や相談の件数が低くなったという国もあります。これは一見するといいように聞こえますが、実は家庭内暴力を行う人物がずっと家にいるので通報ができない、外部の人に助けが求められないという、より悪い状況が隠されているのです。

先が見えない環境で経済的な不安やメンタルの不安定さが、家庭内暴力を加速させてしまっているのでしょう。これは由々しき問題であり、本来であれば直ちにシェルターに避難すべき案件ですが、外部から隔離されている以上できないのが実態です。

自粛でより家庭不和になる

夫げんきで留守がいいというテレビコマーシャルが過去あったような気がしますが、まさにこれは真実という気がします。コロナ離婚という言葉も生まれていますが、自粛の中で家庭内不和がどんどん進んでいる家庭も少なくありません。このような家庭は実はこの自粛になる前からなんらかの不和の種があり、それを解消せぬまま見ないようにしてきた結果、今、無視できない状態になっているという家族も多いのです。

家で仕事をしているのにも関わらず、休みと履き違えて色々と頼み事をしたり、逆に、仕事をしているということを言い訳に、家族の方を向かないなど、気になっていた家族の性格や行動を無視できない状態にあるのです。

また状況が戻れば、元通りに何事もなかったかのように戻る家族もあるのかもしれませんが、開いた溝はそう簡単には埋まらないのではないでしょうか。

耐えるよりも新しい工夫を

この状況さえ終われば、コロナさえ収束すれば全て元通りになると思ってはいけません。この状況はそもそも短期間で終わりませんし、今だけやり過ごせばいいと思っているとずっと我慢をすることになります。なので、難しいかもしれませんが、全く新しいやり方にトライするしか方法がないのです。まず、いい意味で家庭内で干渉しないようにする、できるだけ別の部屋で仕事をする。無理に一緒にご飯を食べようとしない、など、一緒にいることがストレスになるのですから、家庭内で上手に離れて暮らすのです。

とはいえ、この期間で相手のことがよくわかり、その後のことを考え直すというのも長い目で見てみれば悪くないということもあるかもしれません。

今回のブログではこれといった解決方法やラルフの体験談などが語れず申し訳ないのですが、隠れた家庭内不和や家庭内暴力の被害があるということわかっていれば「うちだけではないだろうか」という不安はまずなくなるのではないかと思います。






12.08.2019

家族という名の足枷

このブログでは、毒親、虐待などについての知識、および治療法やその他心理学などをテーマに、今尚苦しんでいる方々のために少しでも力になりたいと思い続けています。今日は、少し最近思うことについて、日記風ではありますが私自身の考えを少し書いてみたいと思います。


8.13.2019

カバートアグレッションは歪んだ自己防衛なのか?

カバートアグレッションとは、一見いい人のふりをして他人に近づき笑顔で攻撃してくることをいいます。英語ではCovered Aggressionといい、日本語表現としては「潜在的な攻撃性」となります。一見いい人のふりをしているという点が、カバートアグレッションの特徴であり、自己愛性人格障害とは違う点です。

リンク:カバートアグレッションとは 
リンク:自己愛性人格障害とは

このカバートアグレッションの傾向を持つ人が、Ralfの周りには数名いるのですが、その人たちの置かれている境遇やまわりの環境を見てみるとある種の共通点と、彼らががカバートアグレッションのような潜在的な攻撃性を持つに至る理由のようなものが見えてきて、これはひょっとしたら豪烈な自己防衛のひとつなのではないか?と思うようになりました。今回はカバートアグレッションの傾向をもつ人についてです。
注意:学術的な精神心理学や医学に基づいたものではなく、あくまでも個人の経験による推測のひとつを記したものです。
Free-PhotosによるPixabayからの画像

8.12.2019

毒親 夏休みを憂鬱な気分にさせない方法

社会人になると長期の夏休みは取りにくくなりますから、学生の1ヶ月や2ヶ月の夏休みが羨ましいと思ってしまいます。しかし、自分が学生だった時を振り返ると、楽しいばかりではなかったような思い出もあり、長期休暇になるとやってくる毒親持ちならではの憂鬱について、自分の経験を振り返って見ようと思います。

 社会人になれば長期の休みはないとはいえ、ある程度の期間夏季休暇を取得することができる会社は多いと思います。Ralfの勤務した会社も夏季休暇は設けられており、夏の間に数日自由に取得して良いということになっていました。しかし、お盆時期に夏休みを取得しても実家に帰ることはなく、別の場所に旅行にでかけるか都会で過ごしたりしています。

仕事があるといって帰省しない

社会人であれば一番良いのは仕事で帰省できないという理由が一番効きます。家族がいて孫の顔を見せに行くという目的がある場合は難しいのかもしれませんが(すみません、経験がないのでわかりません・・・)どうにかこうにか理由をつけてお盆中にも仕事があるから帰省はむずかしいと伝えましょう。

帰省しても一泊が限界

なぜか日本はお盆には帰省しないといけないという風潮があるので、どんなに仕事があるといって断っても親戚の関係などで帰省は免れないという場合もあるかもしれません。Ralfも祖父の初盆などあまりないイベントにはどうしても帰らないといけないことがあり、憂鬱な気持ちになりました。親と顔を合わせると想像以上の体力を浪費してしまうので、帰省しても1泊が限界。どうしても帰省しなくてはいけない場合でも、長い間の滞在は避けたほうが良いです。


学生の時は社会人よりも帰省の回数が多かったし、一度の帰省で比較的長く滞在していましたが、なんとか早めに東京に帰れるようにいつもうまい理由を探していたように思います。Ralfが学生のときにやっていた方法をいくつかご紹介します。

アルバイトを入れまくる

東京でやっているアルバイトを入れまくって、あんまり実家にはいられないという状況をつくっていました。お盆は忙しいとか人がいない、のようなことを言ってバイトがあるから早く帰るという風にしていました。バイトぐらいいつでも休めるのでは?と色々小言も言われましたが、つき通しました。

図書館に入り浸る

実家に帰っても、家でのんびりしていると言われたくないことを言われたり、毒親のペースに巻き込まれてしまうので、地元の友達と会うか、それでも用事がないときは近所の図書館に入り浸るのも良いと思います。クーラーも効いていて快適です。

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私は、大学生の頃、帰省した際に毒親からの暴言で心が深く傷ついて家から飛び出したことがあります。気持ちがグラグラになってそのままどんどん歩いて、子供の頃に遊んでいた公園を通り抜け、さらに遠くの公園までいきました。誰かに話を聞いてもらいたくて、どこかの占いの番号に電話しました。占い師の人は声だけで判断すると結構ご年配のおばあちゃんのような人で、話を聞いてくれました。占いがしたかったわけではなく、ただ誰かに話を聞いてもらいたかったのです。当時大学生のわたしにとって電話占いの金額はなかなか痛い出費でしたが、それでもあのときは他の方法が見つからないぐらい追い込まれていました。真夏の炎天下で、公園の端っこにあるトイレの裏で、誰にも見られないように大泣きしながら電話をしたのを覚えています。

今、思い出して見て、あのとき他にだれか頼りになる人がなかったのかな?と思っても、思いつきません。当時はソーシャルメディアもなく、便利なサービスも少なかったのです。今では、心が傷ついたときに助けてくれるひとは家族以外にもたくさんいるということを忘れないでください。

せっかくの夏休みなのに毒親に台無しにされたくはありません。しかしお盆は親と顔を合わせる機会も多いので、ダメージを少なくするように工夫して、いい夏を過ごしてください。





6.24.2019

毒親の二次被害 誰もわかってくれない辛さ

毒親を持つ人の多くは「この辛さを誰も理解してくれない」という気持ちをよく抱いてしまいます。自分と周りの温度差があまりにも違いすぎて人知れず孤立感を味わってしまうことがよくあるではないでしょうか?ラルフもこのような辛さはかなりの長い間感じていましたし、今では信頼しているカウンセラーとごく少数の友人のみに話しているだけで、すでに誰かに理解してもらいたいという気持ちはなくなりました。

なくなったとは言え、やはり面と向かって「それはあなたの思い込みよ」というようなことを言われると、当然心はざわつき、どんなに親しい友人でも心のどこかがうっすらと傷つくなあと思います。その友人には何にも落ち度はないにも関わらず、少し距離を置いてしまいそうになる。これが毒親被害の二次被害だと私は思っています。

今日は、第三者からの罪のない一言に傷ついてしまっている方に、鵜呑みにしなくていい言葉を少し紹介したいと思います。

6.06.2019

毒親と離れて暮らすデメリット

最後に親に会ったのはいつだっただろうか?どうしても先祖の法事に出向かなければならないことが数年前にあり、そこで久しぶりに顔を会わせたが、その時点ですでにかなりの年数会っていませんでした。数年前に会った時は数時間程度だったと思います。数時間程度なら、自分も相手も精神的な負担は軽かったのではないかと思います。。

毒親と離れて暮らし、精神的にもほぼ決別した状態でいることはメリットしかないように見えますが、やはりこのような「普通ではない」親子関係は時々デメリットのようなものを感じることがあります。デメリットというか覚悟しておいたほうがいい事といったほうが正しいかもしれませんが。私が毒親と物理的にも精神的にも離れて暮らす事で感じた「覚悟しておいた方がいいこと」をまとめてみました。

5.20.2019

笑顔であなたを壊す人々 カバートアグレッション

毒親はなぜ毒親なのか。
アルコール中毒、暴力的虐待などの第三者が見てもわかりやすいものは無いけれど、非常に毒性の強い親がいる。親だけではなく、会社にも、学校にも、コミュニティにもいるかもしれない。今日は「隠れた攻撃性」と言われるカバードアグレッション Covevrd Aggression についてご紹介します。

5.16.2019

ストレスを感じる力

ここ数年、仕事というものにかなりのストレスを感じるようになりました。仕事そのものというよりは職場にストレスを感じると言ったほうが正確かもしれません。これは年齢的なこともあるかもしれませんが、単純に自分の成長度合いもあるのかもしれません。理由は複合的なものとは思いますが、ひとつ決定的なことは「ストレスを感じていることを素直に認められる」ようになったということです。

5.02.2019

決裂が育てるもの 〜万引き家族〜

見たいと思っていた万引き家族をようやく見ることができました。是枝監督の作品は「誰もしらない」「そして父になる」とどの作品も大好きで、家族の形と絆がテーマです。よくありがちな家族っていいものだよねというシンプルなストーリーではなく、かといって血が繋がってなくても家族になれるというような陳腐なものでもなく、考えさせれられる映画です。
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※注意 映画の内容や結末についての記述があります。

虐待する親でも育てる権利はあるのか

稼業は万引きという犯罪に手を染めている一方で、家族のらしい心のあるやりとりと貧乏でも安心できる家庭。物語の前半はそのような家族のあたたかみが描かれますが、次第にこの家族は本当の家族ではないということが徐々にわかってきます。そしてこの家で暮らす子供や少女は虐待児や親との間で問題がある子供たちというのがわかります。ストーリーが進むにつて果たしてこの子供たちは本当の親の元で暮らすことが幸せなのか?という疑問を見ている側は抱きます。

決別することで育つ子供

映画を見進めると、このちぐはぐな家族に感情移入をしてしまいます。しかし、万引きは犯罪なのでいつかはバレ、警察に突き出されます。そして家族はバラバラになってしまいます。その時見ているひとはこの家族がバラバラになっていくのがいやだという気持ちになるのです。世間は無情だ、常識や法律で一辺倒にジャッジするのではなく実態をみてほしい、そんな風に思うほどこの家族を守りたいという気持ちになります。物語は家族が壊れたところで終わってしまいます。この結末が何を意味するのかわからなく取り残されたような気持ちになったので、もう一度是枝監督のコメントを読み返しました。

特に震災以降、世間で家族の絆が連呼されることに居心地の悪さを感じていて。だから犯罪でつながった家族の姿を描くことによって、“絆って何だろうな”、と改めて考えてみたいと思いました。

そして、ラストシーンについては決別で育つ子供もいるというコメントもされていました。確かに映画を見ていると家族がバラバラになってしまうことに悲劇を感じます。しかし、万引き稼業をずっと続けることはできません。少年は家族への想いもありながらも学校に通い始め、家族と離れて強くなっていくのです。

親と離れることで育つもの、強くなるもの

親に苦しめられた私はある時期事あるごとに「あんな親でなければ自分はもっと」「あんな風に育ったからだ」と親と自分の過去を恨んでいました。抵抗のフェーズがすぎ、様々な方法で癒しを進めると、ふとしたときに「あの経験があったからこそ」という考えが浮かんでくるようになったのです。わたしが今やっていること、できていること、それらは「親から離れたいために仕方なくやったこと」と恨むものではなく「あの環境だったからこそ得た素晴らしい体験」という気持ちになったです。(癒しのレベルがかなり進まないと自然に湧いてこないので、もし恨みが強い人はその恨みをしっかりと向き合うことが先のフェーズです)

実親じゃなくても育ててくれる人を大事に

さて、今回の記事は僭越ながらRalfの個人的なメッセージで締めくくりたいと思います。世の中で大事なことは実親ではなくてもたくさんの人たちが教えてくれます。それは分かりやすく先生とか講師などの肩書きがない人でも、年上でなくとも、自分の存在を軽んじずひとりの人間として扱ってくれるひとはたくさんいます。そのような人たちを大事にしてください。実親が愛情たっぷりに子供を育て、子供も親を大事にするという家族の理想の形に縛られる必要はありません。そのようなもはメディアのつくった虚像です。