2.25.2025

栗城史多さんについて思うこと

 

こんにちは。

久しぶりの投稿です。

登山家と言われた栗城史多さんについて、大変今更ではありますが、あくまで個人的な感想を書きたいと思います。


彼のことを知ったのはかれこれ20年近く前のことで、当時勤めていた会社の先輩が「面白いドキュメンタリー番組をみた」という些細な雑談で知ることになった。

先輩の話では、世界の高い山では遭難したり滑落したりして亡くなってしまう登山家がいるが、あまりにも高度が高い場合はご遺体を収容することも難しく、そのまま放置されていることがある。そして、他の登山家たちはそのご遺体を目印にして登ることもある。ドキュメンタリー番組で特集されていた栗城という登山家は、登山の様子をライブ中継しているが、そのご遺体があったりしてすごい映像だった、というものだった。

それを聞いた自分は「へえ、そんな世界があるのか。すごいね」程度の感想であり、当時のインターネットは無法地帯でそのドキュメンタリー番組がネット上に違法投稿されていて、その番組や栗城さん自身が投稿した動画などを後日検索してみて「すごいなあ、自分は登山などはできないからこうやって配信してくれるのは面白い」と思っていた。

ご本人が「踏み出す勇気」や「不可能はない」的なことを言っているのにも「頑張っている人がいるな、すごいな、応援したいな」と純粋に思っていた。

それから、当時おそらく栗城さんの公式ホームページなのか運用していたfacebookなのかで次はどんな山に挑戦するのか少しサイトに訪れたこともあったが、登山が趣味ではない自分にとって次第に興味も薄らいでいき、エベレストに挑戦しだしたあたりから「エベレスト⚪︎⚪︎メーターで断念」などのネットニュースをたまに見かける程度のことでしかなかった。そんなニュースのヘッドラインをみても登山の知識を持ち合わせてない自分は「そりゃ世界の最高峰だもん、簡単には登れないよなあ」程度の感想しかなかった。

その後、エベレストで登頂を断念し下山途中で滑落遭難死したというニュースを見た時も「ああ、亡くなってしまったのか」ぐらいの感想だった。しかし、一番最初に彼を知った時には「すごいな、頑張ってほしいな」とピュアに思ったのは事実で、その後批判的な意見があるということもチラッと見聞きしたこともあったが、実際に議論や批判内容がどういったものなのかはよく知らなかった。

亡くなってから何年も経っていると思うが、Youtube動画のおすすめになぜか栗城さんの動画が出てきて「ああ、こうゆう登山家がいたな」と思い、批判もあったようだけど一体どうゆう批判だったのだろう、というちょっとした興味で色々と調べてみたところ、とても考えさせられる内容だったのでこうやって自分なりに書いてみたいと思った。

というか、このモヤモヤした気持ちをどう扱っていいかわからず、書くということで整理してスッキリしたいわけではないがモヤモヤを何かに吐き出したいだけなのかもしれない。

先に述べておきたいのだが、自分は登山の経験はありません。よって、登山における専門的知識はなく全て登山家の方々や、まとめられているWikiや記事などを読んだ上で書いたものでありますので、実際の登山のやり方や疑惑の内容についてはそういったマテリアルからの情報になります。

栗城史多まとめwiki 


批判の内容は主に、無酸素ということと単独ということなのだろう。

色々な記事を読んで、プロの登山家が「ほんとうに登頂しようとしているのか?」という疑念を投げかけている。自分はこの言葉がどうゆうことなのかよくわからなかったが、妙に心に残る言葉だった。登頂する気もない人が登山家と自称しエベレストという山に挑むということがあり得るのか?様々な記事を読んでいると、素人の自分にでも、確かにこれは登頂を真剣に狙った行動とは言えないと言われてもおかしくはないなと思うようになった。

無酸素で登頂を目指す、ということを聞くと登山知識のない自分にとってはなんだかよくわからないけどすごいなあ、と思ってしまうのである。高い山の山頂付近は空気が薄いという知識はあるし、ロープウェイではあるけれどもスイスのマッターホルンを眺めるための観光地で3,800m地点まで行ったことがあって大変空気が薄かったので、それよりも遥かに高い山であればより空気も少なく極限のところなのだろう、と。そしてわざわざ「無酸素」と謳うのだからきっとすごいことなのだろう、と素人は思うのである。これは自分だけではないと思う。

登山家の方々の記事を読んでみると、酸素ボンベが必要な山というのは8,000m級の山々であり、栗城氏がエベレスト以前に登頂していた山はそもそも酸素ボンベを必要としない山であるらしい。当人が謳っている「世界7大陸最高峰に無酸素単独で挑む」という中には無酸素で挑むことに価値があるエベレストも含まれているわけだから完全に間違っている表記というわけでもない。自分は広告業界での経験があるのでこういった表記に関して、企業は広告を打つときに過大広告になっていないか、誤解を招かないかなど何度も厳しくチェックをするし、景表法という法律まであるぐらいだ。なので、この表現は個人的な意見でしかないが「微妙」という感じ。完全にクロとも言えない。これがなんらかの企業の広告であれば、小さく注釈を入れて守りを固めるな、という見解である。「世界7大陸最高峰で無酸素とは、通常酸素ボンベを使用して登頂にチャレンジするエベレストでの無酸素という意味」みたいな感じ。なので、ここはそこまで激しく批判されることはないのではとも思う。(議論はある)

一方、激しく批判や議論の対象となっていたのは「単独」という部分である。

単独で登頂という価値には概念があるという。

BCからたった一人で出発し、すべての荷物を自分で運び、他のパーティが残していったロープやハシゴなどのギアも使わず登頂し、そしてBCまでひとりで下山するということだそうだ。ヒマラヤの山々は5,000から6,000mあたりでベースキャンプを張り、高所順応(平地から高地へ移動して一定期間滞在することで、酸素の薄い環境に体が適応する現象)をしながら、登頂を目指す。当然一気に登れないので、ところどころでテントを張りながら、最後は一気に登頂し下山をするのである。8,000m以降のデスゾーンは名前の通り人間という肉体が滞在できるには極めて危険な環境であることからできるだけ迅速に登頂し戻ってこなければならない。また、通常の高所登山では数名のパーティを組んで万一の滑落に備えそれぞれをロープで繋ぎ登頂する。このことは素人の自分でもなんとなく知っていた。その知識は登山映画だったり、他の登山家の偉業をニュースや記事などで読んだ程度のものではあるが、それでもたった一人で挑むというのは高難易度であるのだろうという想像はできた。

登山は競技ではないので、単独登頂ということに明確なルールが定められているわけではない。オリンピック競技のように審判がその場に立って「はい、あなた単独ではないですよ、失格」と第三者が山頂でジャッジをすることは当然ない。よって、自己申告になるのであろう。自己申告なので誤魔化すことも可能そうに聞こえるが、実際に8,000m級の山々でほんとうに「単独」を欺瞞することも逆に難しいのではないかとも思うのである。

まず、BCには他のパーティもいるだろう。登山中に別の隊とすれ違う、お互いの存在を認識することもあるだろう。このような高嶺はそもそも登山ができる季節が限られている。さらに登頂を目指すとなると良好な天候の日にちも限られている。となると、単独で登っているかどうかは別チームであるとしても他の隊が見てわかるのではないだろうか。

栗城氏の場合は「単独」というところに大きな疑惑があった。

テレビのドキュメンタリー番組で、ひとりで登る同氏の後ろにシェルパと思われる2名が後からついていっている空撮映像がある。仮に先をいく栗城氏に何かあった場合はそのシェルパがすぐに駆けつけることができるようになっていたのではないか。

登山ルートで雪崩が起きる危険性があるかどうかなどBCキャンプのスタッフに無線で確認し判断を相談している時もある。歴史ある山岳業界での「単独」の概念は、そういった山での判断も自分で行い無事に登頂し下山をするということも含めて「単独で成功した」ということになるそうなので、BCのスタッフに判断を仰ぐのは「単独」とは言えないのではないか。プロの登山家の方々が口を揃えていう「単独ではない」というにはそれなりの理由がある。

自分はこれらの意見が本人の耳に届いていなかったわけれはないのではないかと思うのである。ライブ配信にこだわった栗城氏である。インターネットの自由な声というのには世代的にも当然わかっているし、自分に対する意見がコメント投稿されたりすることもわかっているわけで。現に彼を応援する顔の見えないネット上の温かい声援には殊更敏感な彼だったわけである。そう言った登山家からの意見を「全く知らなかった」わけはないと思うのである。

「批判をする人たちは僕をわかっていない」と何かのインタビューかなんかでみた。

中にはほんとうに悪質なアンチコメントもあっただろう。それらは「挑戦する人を馬鹿にする」意見として無視をしていいし、そうゆうのに左右されず「夢を追い続ける人」という姿がたくさんの人の胸を打ち勇気を与えるということは栗城氏の活動の中心にあった。

経験あるプロの登山家たちは「挑戦すること自体は素敵なことである」と口を揃えていっている。その上で準備やトレーニング不足の指摘、難関ルートをあえて選択することへの疑問を伝えているのだが、その厳しいけれど的確なアドバイスすら栗城氏には「批判アンチコメント」と捉えていたのであろうか。どうにもよくわからない。

高所順応トレーニングの一環として、エベレスト挑戦前に富士山へ登っている。結果、8号目で登頂を断念し下山しているようであるが、この日は確かに雨が降ったそうであるが登山経験のない一般観光登山者も登頂しているような日である。これには登山経験のない自分も少し笑って呆れてしまうほどであった。もちろん親しみのある富士山であるが事故も多い。天候によっては当然危険である。雷雨があれば下山は正しい判断である。しかし8号目で断念し下山した、あるいはそもそも登頂を目的としておらず8号目付近でなんらかのトレーニングをしていたとか、そう言った説明もないままただただ8号目まで行ったが下りた、ということらしい。

エベレストの登頂はもちろん、多くの人がどれだけそこを目指しても成功しないこともあるチャレンジであるが、富士山も登頂しないとなると、この人にとって登山とはなんなのだろうか。

登山=登頂を前提で登るもの という素人の短絡的な発想自体が間違っているのだろうか。必ずしも登頂しなくても山の稜線を歩いてみたり、途中まで登って帰ってきても本人がそれを目的にして楽しんでいればそれも「登山」と言えるのではないか。

エベレストはトレッキング目的でも行くことがある山なのだろうか。調べてみると確かにエベレストのトレッキングはあった。ハイキングとして誰もが楽しめるアクティビティだそうだ。確かにこれなら自分もちょっと行ってみたいと思った。

栗城氏はエベレストにトレッキングに行ったのだろうか。登頂を目的とせず、山を散策し楽しみ帰ってくる。山岳業界にある「単独」という概念ではなく、チームを組まないが自身の安全のためにシェルパは雇い、BCのスタッフにも判断の協力をしてもらう。つまりシェルパやBCのスタッフはチームとしてカウントしない。命綱のロープでチームメイトと括らない自分ひとりで登る。

あくまでも推測である。

ひょっとしたらこうゆう状態をほんとうに「単独」であると本気で思っていたのかもしれない。もしそうなら少々恥ずかしいことではあるが、この時点での無知に罪はない。その後、各方面からの指摘があるにもかかわらず「単独」とこだわり続けた。「単独」ではないのに。ここがどうもわからない。単独という看板を外したらスポンサーが消えるのだろうか?単独じゃなくても酸素ボンベがあってもエベレストに登頂すること自体、多くの人にとってはそれだけでも十分尊敬に値することなのだが・・・。

エベレストに初挑戦する際の映像を見た。


「単独無酸素登頂、生配信中継、必ずやり遂げたいと思います」とカメラに向かって爽やかに話している。プロの登山家であればこの時でも単独の概念やそれまでの経験や実績などの観点からなんらかの意見をしたのかもしれないし、実際した人もいるかもしれない。しかし、自分がここで注目したいのは本人が「必ずやり遂げます」と真っ直ぐ話しているということである。たとえそれがプロの目線から見てどれだけ無謀なことであっても、ピュアに「やり遂げるんだ」と話しているのはある意味健全なことだとも思える。そしてその時、実力不足や準備不足、天候や登山計画などなんらかの問題で最終的に登頂が果たせなかったとしても「やり遂げるんだ」という思いが続く限り、自分なりに努力してやり遂げるためにどうすればいいかを考えるのではないか。当然、目指しているのは極めて難易度の高い挑戦である。「やり遂げたい」という意思だけでは難しい部分もあるだろう。もう無理なのではないか、諦めてしまった方がいいのではないか、と後ろ向きな感情が出てくることもあるだろうし、そういった葛藤は避けては通れないかもしれない。

単独で無酸素で挑戦、という極めて難易度の高い挑戦を掲げること自体はいいのだが、仮に酸素ボンベあり、単独ではなかったとしてもまずは8,000mを超えるという経験をするという点で一度登ってみるということだってできたかもしれない。しかしそれをやらなかった。

一度創ってしまった自身のキャッチコピー「単独無酸素で」という点に縛られてしまったのだろうか。もしそれを一旦はおろして「エベレスト登頂」をした場合、中には「単独でも無酸素でもないじゃないか」と批判をする人はいるだろう、しかし「単独無酸素」での登頂に向けたひとつの通過点にはなったのではないか。

彼は結局は8,000mを超えることはできなかった。8,000m以上はデスゾーンと呼ばれる人間にとっては極限の環境だ。エベレストの頂はさらにそこから800m以上も上にある。ほんとうに想像を絶する世界なのだろう。8,000mを超えれた経験はなかったとしてもその直前の7,000m後半までは自力で行ったのである。であれば、その先がどのぐらい過酷なところなのか、7,000mの段階でもそこがどれほど厳しい環境なのかは過去7回のエベレスト経験でわかっているにもかかわらず、さらにそこから1,000m近い標高を「無酸素」で、しかも「単独」で行くことの恐ろしさ、あるいは可能性の低さを栗城氏本人がわかっていないわけはないと思う。それこそ7,500m以上の標高に立ったものなら全身でわかるのではないかと思ってならないのである。

そして、最後のチャレンジの直前に撮られたインタビュー映像をみた。

インタビューを見た時に「挑戦している」ということはしきりに口にするが「登頂したい」という言葉がないことに違和感を感じた。「エベレスト2018行くよ」とおどけているが「登頂するよ」とは言わないのか。初めて挑戦する前に「無酸素単独登頂やり遂げたいと思います」と語っていたのはどこへ行った? 

エベレストに挑戦、聞けばほとんどの人が「登頂を目指しているのだろう」と思うはずだ。そして挑戦する登山家は当然その頂を目指して、絶対に登頂して世界一高いその頂に立ってみたいという純粋な強い気持ちがあるのではなかろうか。

彼は「行く」とは言ったけれども「絶対に登頂して見せる」という強い決意のようなものは最後まで感じなかった。では、登頂を目指さずにエベレストに挑戦するとは、一体何をしに行くのか?

やりたいのは挑戦であり、達成ではない

自分はなんとなくこう思う。

彼は「挑戦している」という状態が心地いいのであって、「挑戦に成功した」その先にある未知の世界に、たとえそれがどんなに素晴らしい景色であるとしても、その領域に踏み出すことが怖かったのではないかと思う。

「挑戦している」という状態をキープすることでメリットもあっただろう。スポンサーからの資金集めも「挑戦を応援したい」ということであるから「挑戦し続けている」という状態はキープしておかなければならない。達成するかどうかは重要ではなく挑戦しているかどうかが大事なのであったのだろう。

スポンサーや講演会の仕事が忙しく、必要なトレーニングを怠っていたという意見もあるようだ。それもあるかもしれない。ただ、冒険家が冒険家でいられるためには当然資金も必要であり、そのためにスポンサーを見つけたり講演会でギャラを稼ぐという方法自体になんの問題もない。現に多くの登山家がそのような活動を通じて資金を得て再度ヒマラヤに挑戦している。

なので自分は、スポンサーのためにキャッチーな謳い文句である「無酸素単独で」の看板が必要だったという意見も認めるが、それだけではない何か彼の脆弱性を感じてしまうのである。そして、その脆弱性は人間が大なり小ない持っている根源的な弱さであり当然自分にもある「弱さ」をまざまざと生々しく見せつけられているようで居心地が悪い気分になる。何かモヤモヤしてしまうというのはここである。

夢を達成してしまったら不都合

栗城さんは、エベレストのノーマルルートですらも登頂できなかったのに、ルートをどんどん難しくしていったそうだ。最終的に選んだルートはエベレストでも最難関と呼ばれるルートだった。ほぼ不可能である。

不可能であるということは栗城氏にもわかっていたのではないかと思うのである。上記のインタビュー映像を見た時に、どのような質問にも回答が的を得ていないというか何かこう自分ごとではないような妙なふわふわ感を感じてしまうのだ。

当初「単独無酸素登頂、やり遂げます」と爽やかに言っていた無知の栗城氏の方が健全に見えるのだ。最初のエベレスト挑戦で、無酸素単独は無理だと痛感したのかもしれない。どんどん難関ルートを選んでいくことで、周りの登山家たちからは「支離滅裂だ」「無茶苦茶だ」と言われようが彼にとってはそれが都合が良かった。無茶苦茶でも支離滅裂でもない、なぜなら彼は登頂する方が不都合だからである。絶対に登頂できない理由が欲しかったのではないか。

それは、自分の登山家としての実力をわかっていたのではないか。わかっているなら、地道に努力していくことで登頂の夢は一歩一歩近づいてくる。しかしそれには、まず自分がどの実力なのかを正確に知ることになる。それが怖くて怖くてたまらなかったのではないか?

実際の自分と向き合えば、単独無酸素でエベレストに登頂というチャレンジがどれだけの挑戦で、山岳会、人類の歴史としてどれだけの価値を持つか、その偉業の前で自分自身が虫ケラのように感じてしまうのが恐怖だったのではないのか?

弱さを認めるのは誰でも怖い。恐怖である。

このブログは主に、独親からのトラウマについての内容がほとんどであるが、栗城氏が独親育ちと言いたいわけでは断じてない。それに、確かにプロの登山家たちが指摘するように「単独」や「無酸素」という部分には議論の対象になるような行動があるのだろうと思うが、自分はそこに批判したりするほどの経験も知識もないので、これで彼は詐欺師だとか嘘つきだと言う気もない。むしろ、エベレストには登頂できなかったけれども、他の6大陸の山には(単独という概念の議論はあると思うが)登ってきたわけだし、山の厳しさは素人の自分より遥かに本人がわかっているはずなのに、なぜプロの登山家たちの意見を「アドバイス」と受け取らず「アンチ」と捉えてしまうのか、そこがわからないのである。

トラウマがあろうがなかろうが、人間とは弱さを持っている生き物なのだろうと思う。その弱さを認めることは恐怖であり、無力感であり、絶望かもしれない。しかし弱さを認めた先には底しれぬ安心感がある。

それは本当の自分に出会うということであり、その絶望の中で何かの光が見える。

弱さを認めるのは勇気である、という人がいる。勇気、なのかもしれないが、自分は勇気でもないような気がするのだ。それは諦めでもあり、降伏でもある。降伏した瞬間になぜだか訪れる根源的な安心感、これがどこからくるのかわからないが、そこへ至るまでには筆舌に尽くし難い葛藤や苦しみもあるかもしれない。

彼は弱さを出せるところがあったのだろか。
弱さを曝け出せる場所は多くない。もし弱さを曝け出す人がいなくても自分自身で抱きしめてやればいい。彼の場合はそれがヒマラヤの山々だったのだろうか。

最後のインタビューを見ていると、この人はもうエベレストに挑戦したくないと本音では言っているような気がしてならないのだ。




11.24.2024

不安の正体 なぜ私たちはいつも不安なのか

今、何かに不安ですか?

改めて聞くと、うーん、、となりますが、実際に私たちは日常的に多くの時間を「不安に」過ごしています。

一体、何に不安なのか落ち着いて考えてみると、具体的に何に対して不安になのかわかりません。しかしお金のこと、身体のこと、それらは多くの人が共通して持っている不安であり、条件はありません。貯金が1億あっても不安なひとは不安だし、お財布に100円しかなくても不安にならない人もいます。今健康体なのに、いつか身体が動かなくなったらどうしようと不安になる人もいれば、大病なのに受け入れている人もいます。

この正体不明な不安をなくすために、あらゆることをしてきました。

物理的に不安を解消するためにやたらめったら働いてみたり、急に健康志向になったり。

不安は些細なことでも起こります。さっき一緒に食事した友人、ふとつまらなそうな顔をしてたけどわたしと一緒にいてつまらなかったかな、何か気に触る一言言ったかな?
恋人が今出張で海外に行ってるけど、自分以外の異性とひょっとして仲良くなったりしないかな、ていうか、そもそも本当に出張だよね?

とかとか、とにかく不安はあちこちにあって自分でも勝手に生み出します。

なぜ?

それは「今のこの状態では足りていない」という思いが無意識にずっとあるからです。










10.24.2021

演技性パーソナリティ障害 - 平気で嘘をつくことで人間関係を崩壊させる人たち

お久しぶりです。
最近嘘をつきましたか?

人は大なり小なり嘘はついてしまうものです。本当は寝坊したのに、電車が遅れたと言ってしまったり、食べたのに食べてないと言ったり。比較的小さな嘘もあれば、誰かを陥れるような嘘をつく人もいます。人は嘘をついた時に、自分は今、事実と違うことを言ったという自覚がありますし、多少なりとも罪悪感に駆られるものです。しかし、罪悪感に駆られるどころか、本人は真実だと思い込んでしまう、そんな厄介な人がいます。



虚言癖にみるパーソナリティ障害

一言でパーソナリティ障害といっても、いくつかに分類されるようです。このブログでも取り上げたことのある「自己愛性パーソナリティ障害」「境界性パーソナリティ障害」「演技性パーソナリティ障害」です。最近、この「演技性パーソナリティ障害」と思われる人物との接触があったので、筆者は医者ではないが、その体験を書いてみようと思います。(医者ではないので診断をしたわけではありません。あくまでも、その人物の行動や言動から、演技性パーソナリティ障害に当てはまるものが多い、という体験です)

演技性パーソナリティ障害の特徴

演技性パーソナリティ障害の特徴を大まかに列挙すると、

  1. 自分がいつも目立っている存在でいたいと思っている
  2. 他者との関係を、相手が思っている以上に近い存在、仲良しであると思い込む
  3. 自分自身をドラマチックに演出する
  4. 見栄っ張りで、見た目にこだわり人の気を惹こうとする
  5. やたらと大袈裟に物事を誇張する
  6. 相手が大物であればあるほど、自分と親密だと強調する

目立ちたいという欲求、大物と親密になりたいという願望は、多くの人にあるものなので、そのような気持ち自体が問題であるとは思えません。上記のような願望を満たすためなら、平気で嘘をつき、事実とは異なることを拡散したり、相手を混乱させたりし、他者との関係やコミュニティを壊したにも関わらず、本人には申し訳ないという気持ちがないどころか、自分は一才間違っていないと思っていると、演技性パーソナリティ障害に該当するのではないかと思います。

本人の中では嘘が真実になる

この人たちの恐ろしいところは、結局は自分自身にしか興味がないので、自分が賞賛を得ることや、目立って心地よくなるためには平気で都合のいい嘘をつきます。さらには、その嘘は本人の中では「真実」となります。しかし、本当に事実を語っているのではなく、自分自身が賞賛を浴びるような「都合のいい」解釈をするので、同じ話なのに相手が変われば微妙に内容が変わったり、時系列が変わったりするので、結局何が事実なのかわからなくなります。また、こうゆう人がコミュニティにいたり、職場にいると、周りを当惑させます。本人に事実を確認しても、本人は自分さえ不利な立場にならず、都合よく話を作るので、余計にわからなくなるどころか、周りの信頼を無くします。

本人だけが「仲良し」だと思っている

やたらと「あの人とは仲がいい」「あの人は自分のことをわかっている」と親密であるということをアピールします。それが、ある意味なんらかのポジショントークだったり、仕事上の「言葉のあや」であるならまだしも、このタイプはヘタをすると「あの人は自分に好意がある」と勝手に思い込んでいたりします。そして、自分は色々な人と親密であったり、好意を持たれているということを周りに吹聴し、自分がいかに価値があり、人気者であるかをアピールします。

自分を称賛しない人を敵と思い込む

自分のことを称賛しない人に対して敵と思い込む節があるように思います。そもそも人間関係というのは白黒ではっきり分かれないものですし、ある共通の目的をもったコミュニティや、職場の関係になると、個人的な感情というのは時に後回しにし、ドライに付き合う場面も大いにあります(むしろその方が多い)。しかに、演技性パーソナリティ障害は、その人間関係がなんらかの共通目的を持った集団としてそれぞれの役割があるということではなく、自分がいかに目立って、重要人物と思われるか、ということが最大の目的なので、その狙いにそぐわない人は敵とみなし、他の人の前で批判をし陥れようとしたり、わざと悪く評価をします。

こうゆう人が近くにいたら

関わらない、というのが最もいい方法ですが、状況によっては全く関わらないわけにはいかない場合もあると思います。その場合は、感情よりも事実ベースで話を進め、職場の関係なら議事録を取ったり、会話が形に残るようにしましょう。あとから、事実をねじ曲げられることを防ぐためです。また、あくまでも社交辞令でお世辞を言ったことが「あいつは自分に好意がある」のように都合の良い解釈をされる恐れもあります。淡々と話すことがコツです。

このタイプは、遅かれ早かれ、周りの人たちから避けられるようになります。自分から「この環境は自分の価値がわからないダメな人たちだ」と思って、自ら去っていってくれるのが良いですが、なかなかそうもいかないこともあるでしょう。接触を最小限にとどめ、相手の思う壺にならないことです。


4.28.2020

コロナ家庭内暴力 隠れたDV被害

みなさま、大変お久しぶりです。
更新にとっても時間が空いてしまいました。ラルフはこの期間、何かと忙しく過ごしておりましたが、今はコロナウイルスに感染しないようにできるだけ自宅に引きこもっております。

このような状態がすでに2ヶ月続いておりますが、周りでは家庭内不和が進んでしまっている家族をちらほら耳にします。ラルフの周りにいる家庭は、コロナウイルスがこのような状況になる前から不和があり、それが自粛の環境の中で際立ってきたという感じがします。


顕在化しにくい家庭内暴力

コロナウイルス の自粛期間でDVが酷くなったというのは日本だけではありませんが、このような状況になる前に比べて通報や相談の件数が低くなったという国もあります。これは一見するといいように聞こえますが、実は家庭内暴力を行う人物がずっと家にいるので通報ができない、外部の人に助けが求められないという、より悪い状況が隠されているのです。

先が見えない環境で経済的な不安やメンタルの不安定さが、家庭内暴力を加速させてしまっているのでしょう。これは由々しき問題であり、本来であれば直ちにシェルターに避難すべき案件ですが、外部から隔離されている以上できないのが実態です。

自粛でより家庭不和になる

夫げんきで留守がいいというテレビコマーシャルが過去あったような気がしますが、まさにこれは真実という気がします。コロナ離婚という言葉も生まれていますが、自粛の中で家庭内不和がどんどん進んでいる家庭も少なくありません。このような家庭は実はこの自粛になる前からなんらかの不和の種があり、それを解消せぬまま見ないようにしてきた結果、今、無視できない状態になっているという家族も多いのです。

家で仕事をしているのにも関わらず、休みと履き違えて色々と頼み事をしたり、逆に、仕事をしているということを言い訳に、家族の方を向かないなど、気になっていた家族の性格や行動を無視できない状態にあるのです。

また状況が戻れば、元通りに何事もなかったかのように戻る家族もあるのかもしれませんが、開いた溝はそう簡単には埋まらないのではないでしょうか。

耐えるよりも新しい工夫を

この状況さえ終われば、コロナさえ収束すれば全て元通りになると思ってはいけません。この状況はそもそも短期間で終わりませんし、今だけやり過ごせばいいと思っているとずっと我慢をすることになります。なので、難しいかもしれませんが、全く新しいやり方にトライするしか方法がないのです。まず、いい意味で家庭内で干渉しないようにする、できるだけ別の部屋で仕事をする。無理に一緒にご飯を食べようとしない、など、一緒にいることがストレスになるのですから、家庭内で上手に離れて暮らすのです。

とはいえ、この期間で相手のことがよくわかり、その後のことを考え直すというのも長い目で見てみれば悪くないということもあるかもしれません。

今回のブログではこれといった解決方法やラルフの体験談などが語れず申し訳ないのですが、隠れた家庭内不和や家庭内暴力の被害があるということわかっていれば「うちだけではないだろうか」という不安はまずなくなるのではないかと思います。






12.08.2019

家族という名の足枷

このブログでは、毒親、虐待などについての知識、および治療法やその他心理学などをテーマに、今尚苦しんでいる方々のために少しでも力になりたいと思い続けています。今日は、少し最近思うことについて、日記風ではありますが私自身の考えを少し書いてみたいと思います。


8.13.2019

カバートアグレッションは歪んだ自己防衛なのか?

カバートアグレッションとは、一見いい人のふりをして他人に近づき笑顔で攻撃してくることをいいます。英語ではCovered Aggressionといい、日本語表現としては「潜在的な攻撃性」となります。一見いい人のふりをしているという点が、カバートアグレッションの特徴であり、自己愛性人格障害とは違う点です。

リンク:カバートアグレッションとは 
リンク:自己愛性人格障害とは

このカバートアグレッションの傾向を持つ人が、Ralfの周りには数名いるのですが、その人たちの置かれている境遇やまわりの環境を見てみるとある種の共通点と、彼らががカバートアグレッションのような潜在的な攻撃性を持つに至る理由のようなものが見えてきて、これはひょっとしたら豪烈な自己防衛のひとつなのではないか?と思うようになりました。今回はカバートアグレッションの傾向をもつ人についてです。
注意:学術的な精神心理学や医学に基づいたものではなく、あくまでも個人の経験による推測のひとつを記したものです。
Free-PhotosによるPixabayからの画像

8.12.2019

毒親 夏休みを憂鬱な気分にさせない方法

社会人になると長期の夏休みは取りにくくなりますから、学生の1ヶ月や2ヶ月の夏休みが羨ましいと思ってしまいます。しかし、自分が学生だった時を振り返ると、楽しいばかりではなかったような思い出もあり、長期休暇になるとやってくる毒親持ちならではの憂鬱について、自分の経験を振り返って見ようと思います。

 社会人になれば長期の休みはないとはいえ、ある程度の期間夏季休暇を取得することができる会社は多いと思います。Ralfの勤務した会社も夏季休暇は設けられており、夏の間に数日自由に取得して良いということになっていました。しかし、お盆時期に夏休みを取得しても実家に帰ることはなく、別の場所に旅行にでかけるか都会で過ごしたりしています。

仕事があるといって帰省しない

社会人であれば一番良いのは仕事で帰省できないという理由が一番効きます。家族がいて孫の顔を見せに行くという目的がある場合は難しいのかもしれませんが(すみません、経験がないのでわかりません・・・)どうにかこうにか理由をつけてお盆中にも仕事があるから帰省はむずかしいと伝えましょう。

帰省しても一泊が限界

なぜか日本はお盆には帰省しないといけないという風潮があるので、どんなに仕事があるといって断っても親戚の関係などで帰省は免れないという場合もあるかもしれません。Ralfも祖父の初盆などあまりないイベントにはどうしても帰らないといけないことがあり、憂鬱な気持ちになりました。親と顔を合わせると想像以上の体力を浪費してしまうので、帰省しても1泊が限界。どうしても帰省しなくてはいけない場合でも、長い間の滞在は避けたほうが良いです。


学生の時は社会人よりも帰省の回数が多かったし、一度の帰省で比較的長く滞在していましたが、なんとか早めに東京に帰れるようにいつもうまい理由を探していたように思います。Ralfが学生のときにやっていた方法をいくつかご紹介します。

アルバイトを入れまくる

東京でやっているアルバイトを入れまくって、あんまり実家にはいられないという状況をつくっていました。お盆は忙しいとか人がいない、のようなことを言ってバイトがあるから早く帰るという風にしていました。バイトぐらいいつでも休めるのでは?と色々小言も言われましたが、つき通しました。

図書館に入り浸る

実家に帰っても、家でのんびりしていると言われたくないことを言われたり、毒親のペースに巻き込まれてしまうので、地元の友達と会うか、それでも用事がないときは近所の図書館に入り浸るのも良いと思います。クーラーも効いていて快適です。

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私は、大学生の頃、帰省した際に毒親からの暴言で心が深く傷ついて家から飛び出したことがあります。気持ちがグラグラになってそのままどんどん歩いて、子供の頃に遊んでいた公園を通り抜け、さらに遠くの公園までいきました。誰かに話を聞いてもらいたくて、どこかの占いの番号に電話しました。占い師の人は声だけで判断すると結構ご年配のおばあちゃんのような人で、話を聞いてくれました。占いがしたかったわけではなく、ただ誰かに話を聞いてもらいたかったのです。当時大学生のわたしにとって電話占いの金額はなかなか痛い出費でしたが、それでもあのときは他の方法が見つからないぐらい追い込まれていました。真夏の炎天下で、公園の端っこにあるトイレの裏で、誰にも見られないように大泣きしながら電話をしたのを覚えています。

今、思い出して見て、あのとき他にだれか頼りになる人がなかったのかな?と思っても、思いつきません。当時はソーシャルメディアもなく、便利なサービスも少なかったのです。今では、心が傷ついたときに助けてくれるひとは家族以外にもたくさんいるということを忘れないでください。

せっかくの夏休みなのに毒親に台無しにされたくはありません。しかしお盆は親と顔を合わせる機会も多いので、ダメージを少なくするように工夫して、いい夏を過ごしてください。





6.24.2019

毒親の二次被害 誰もわかってくれない辛さ

毒親を持つ人の多くは「この辛さを誰も理解してくれない」という気持ちをよく抱いてしまいます。自分と周りの温度差があまりにも違いすぎて人知れず孤立感を味わってしまうことがよくあるではないでしょうか?ラルフもこのような辛さはかなりの長い間感じていましたし、今では信頼しているカウンセラーとごく少数の友人のみに話しているだけで、すでに誰かに理解してもらいたいという気持ちはなくなりました。

なくなったとは言え、やはり面と向かって「それはあなたの思い込みよ」というようなことを言われると、当然心はざわつき、どんなに親しい友人でも心のどこかがうっすらと傷つくなあと思います。その友人には何にも落ち度はないにも関わらず、少し距離を置いてしまいそうになる。これが毒親被害の二次被害だと私は思っています。

今日は、第三者からの罪のない一言に傷ついてしまっている方に、鵜呑みにしなくていい言葉を少し紹介したいと思います。

6.06.2019

毒親と離れて暮らすデメリット

最後に親に会ったのはいつだっただろうか?どうしても先祖の法事に出向かなければならないことが数年前にあり、そこで久しぶりに顔を会わせたが、その時点ですでにかなりの年数会っていませんでした。数年前に会った時は数時間程度だったと思います。数時間程度なら、自分も相手も精神的な負担は軽かったのではないかと思います。。

毒親と離れて暮らし、精神的にもほぼ決別した状態でいることはメリットしかないように見えますが、やはりこのような「普通ではない」親子関係は時々デメリットのようなものを感じることがあります。デメリットというか覚悟しておいたほうがいい事といったほうが正しいかもしれませんが。私が毒親と物理的にも精神的にも離れて暮らす事で感じた「覚悟しておいた方がいいこと」をまとめてみました。

5.20.2019

笑顔であなたを壊す人々 カバートアグレッション

毒親はなぜ毒親なのか。
アルコール中毒、暴力的虐待などの第三者が見てもわかりやすいものは無いけれど、非常に毒性の強い親がいる。親だけではなく、会社にも、学校にも、コミュニティにもいるかもしれない。今日は「隠れた攻撃性」と言われるカバードアグレッション Covevrd Aggression についてご紹介します。